ハートに火をつけて

ロックンローラー・TAJIMA独占インタビュー取材メモ

1月16日18時 都内カフェ「リヴィエラ」にて

・生まれて初めて喋った言葉が「bフラット」
・2歳でジミ・ヘンドリックスの夢を見る(「汚い黒人で誰だかわからなかった」)
・哺乳瓶がマイク代わり
・ガラガラで最初の曲を作曲
・幼稚園で「シャウトだったぜ!!」という言葉を流行らせる
・三輪車でダンプに衝突、向こうは大破するも無傷
・幼稚園の先生の半分と寝た(「男とはさすがに寝られないからな!」)
・小学校の時のあだ名は「マイトガイ
・雨嫌い
・小学校の先生の半分と寝た(「男も女も関係なかった、無茶苦茶やってた」)
・中学生と喧嘩して負けたが、自分の歌に感動して最後は土下座してきた
・ジャングルジムがステージ代わり
・のぼり棒に上ってロックンローラーになろうと決意した
・宇宙人を5回見た(そのうち2回は祖父だった)
・手ごねマスター
・全日本けんだま選手権3位
・中学中退
素手で熊を倒した
素手自由の女神を倒した
素手でW杯出場を決めるゴールを決めた
・太平洋を素手で横断
・「素手じゃなかったら逆に死んでた」
・「素手でむかついたよね、あいつ」
・「素手な感じだよね、あの歌」
・醤油が好き
・「俺ほどの醤油好きになると、醤油がなくても食べられる」
・「俺ほどの醤油好きになると、何を食っても醤油の味がする」
・「醤油とロックは切り離せない」
・「新曲は醤油から作った」
・16歳で家出、単身イギリスに「渡米」
・1ヵ月後に強制送還「あそこでロックの全てを学んだ」
・滞在中に行った場所はウォルマートだけ
・「超でかい、マジでロック」
・18歳で初めてバンド「グレゴリーさん」を組む
・「あのバンドは失敗だった」
・「ギター入れ忘れたし」
・「ベースと間違えてオーボエ吹いてたし」
・「一回もスタジオ入らないでライブをしたのもまずかった」
・「だが、ロックだった」
・一度のライブを経て「グレゴリーさん」解散
・この頃からホワイトバンドに注目してた
・この頃からライブドアを怪しいと思ってた
・この頃からあの顔は偽装建築だと見抜いていた
・この頃からモト冬樹が禿げ始めた
・20歳で現在まで続くバンド「飲まず食わず」結成
・「初ライブなんて五人しかこなかったよ」(苦笑)
・「しかも全部メンバーのおふくろと妹」
・最初に作ったオリジナル曲は「GENJI光る」
・食うために様々なバイトを経験した
・けんかをしてばかりで1ヶ月と持たなかった
・弁当用の醤油のキャップを締める仕事だけは長続きした
・「こういう仕事をして一生を終えるのもいいかな、なんてね。」
・実質的なデビュー曲「のっぽの姐御」がリリース
・「売れなかったよ、ほんと。おまけで通天閣のキーホルダーつけたのに」
・22歳で日比谷野音で伝説のライブ
・死者2人、怪我人60人、小林捻次155人
・演奏中に纏足を敢行し、各地のアマチュアバンドが真似
・全治5ヶ月、しかし、足の指が折れたままでライブ活動を続ける
・MUSIC MAGAZINEに初登場、見出しは「纏足ロック」
・「纏足はロックだ、むしろロックは纏足だ」
・今でもライブ会場では纏足する客が後を絶たない
・3曲目にリリースした「ぬらぬらとした俺の」がヒット
・デビュー3年で初アルバム「和田型海上保安庁」をリリース、オリコン15位
・「その頃から、ロックで日本に俺たちの相手になる奴らはいないってわかってた」
・この頃、カレーに目覚める
・朝カレー、昼カレー、夜カレー、オツカレー
・「駄洒落はよしてくれないかな、」
・結婚、男児誕生、「六区」と命名
・セカンドアルバム「あの娘にフィルダースチョイス」リリース、初のオリコン10位以内
・ドラマーの大滝秀治脱退、2年間の活動停止
・「奴のテクは一流だったが、魂は韓流だった」
・休止中、ユーラシア大陸を放浪
・放浪中、3度の逮捕、4度の政府転覆、38度の熱
・「息をしているだけで大陸を感じた」
・「せせこましい日本は俺に合わない」
・「むしろ俺が大陸そのものだった」
ウズベキスタンゆず胡椒を広める
・新ドラマー宮崎あおい加入、活動再開
・復活サードアルバム「裸のゲン」リリース、ミリオンセラー
・現在、新曲「粉ふき」を含むアルバムをロスでレコーディング中
・「ロスはたいしたことない」
・「俺がいるところがロックのメッカ」
・最近、小倉優子が気になる
・「大橋巨泉はガチでロック」
・来年のテーマは「俳句ロック」
・「芭蕉はまじでロック」
・「俺たちくらいしかロックしないから、自然と結果は見えている」
・ちょい悪=ちょいロック
・ありがとうございました