2001年カフーの旅

私の家の隅にある小さなごみ箱は、週に2度燃えるごみの日がくると、中身をごみ袋に移される。今日の朝も燃えるごみの日だったので、中を空にすると、ごみ箱の底には伊藤英明がへばりついていた。彼がマンチェスターユナイテッド所属のオランダ代表FWルート・ファン・ニステルローイに似ていることは周知の事と思うが、私はだまされなかった。ごまかしのためにオレンジ色のユニフォームを着ていたが、それが実はアルビレックス新潟のユニフォームであることも先刻承知だ。紛れもない、伊藤英明。Born to be hideaki ito JASCO.

ここで伊藤英明について、一つその歴史を語ろうと思う。まず、伊藤英明は1845年に丹後の国(今の何県かは勝手に調べろこのパイプカット野郎ども)で生まれた。維新の花嵐が華やかなりしころである。伊藤家の次子として生まれた英明は、成長するに従い、勤皇倒幕の思想に染まるようになり、成人の頃には主家の命に背いて、倒幕運動へと身を染めるようになる。そのとき一緒に参加したのが尾花高夫であり、現ソフトバンクホークスの投手コーチである。倒幕運動をするうちに、伊藤英明はそもそもの人間存在に疑問を持ち、フランスの哲学者ジャン・ポール・サルトルに師事しようとするが、残念ながら彼はまだ生まれておらず、伊藤の存在革命は起こらず仕舞いになってしまった。

ともあれ、それなりの勲功をあげた伊藤は維新の成功とともに栄達を果たす。しかし、伊藤は1年ほどでそれを捨ててしまう。「わしゃあ、役人は好かん」。そうノーフューチャー&パンクイズノーデッドに吐き捨てると、伊藤は野に下った。この時、野に下る途中に投げたボールを見事に打ち返したのが当時の首相であったモロ師岡で、それが野球発祥だという説もある。しかし、伊藤の行動は当時の元勲としては異例であった。彼と同じことをしたのは、後にも先にも当時逓信大臣であった斎藤忠明一人だけであったが、この人物に関しては相当な好き者であったという他は何も伝わっていない。何が好きだったのかも伝わっていない。一説には相当アレがナニでソレソレソレソレだったらしいが、結局のところ斎藤忠明が実はジンギスカンであったという説もなかなか捨てるには惜しい。

伊藤は野に下り、商売を始めた。色々なものを売ったり買ったりしたようだが、主に顔を売り、ひんしゅくを買った。顔を売る商売は今でも盛んだが、その創始者が伊藤であることは余りにも有名だ。開化から間もないこともあり、顔を売ることにはだいぶ偏見もあったらしい。しかし、伊藤は方々から面白い顔を仕入れては高値で売りさばき、日清戦争の頃には商売はだいぶ軌道に乗っていた。手元にその頃の注文票があるので、少し見てみよう。「シャイニングのときのジャック・ニコルソン」、「決勝点を決めたアントニオ・カッサーノ」、「オルガスム寸前の柴田理恵」、「口を開けて眠る坂口力」、「後頭部にサッカーボールが直撃した萩原健一」・・・・そうそうたる面子が揃っている。流行らないわけがない。事実、その年の売上高は日本でトップ10に入り、自社ビルを東京に建てて、菊川怜に一日社長をやらせたりもしている。

しかし、逆にひんしゅくを買う仕事はうまくいかなかったようだ。無理もない。「会話の95%が一人称で始まる」、「悪口を言っているすぐ後ろに社長本人が」、「相続放棄にさえ難癖」、「フレディVSジェイソン」、「ミセリー」など魅力的な商品を買おうとしていたのだが、いかんせん誰もひんしゅくなど売りたくない。伊藤は早々に手を引いてしまった。

大盛況だった商売だが、伊藤はやはり手を引いてしまう。「商売はあまり好きじゃないきに。」だったらやるなよ。伊藤は当時最高の移籍金でPSVに移籍すると3年連続得点王を獲得、その次の年にはイングランドの名門マンチェスターユナイテッドの移籍し、今もなおエースとして君臨する。

ここで私ははたと気付く。これでは伊藤がニステルローイであるということを認めているじゃないか。いや、この前にいるのは伊藤英明ではなく、ニステルローイなのか?ニステルローイアルビレックス新潟に移籍するというのか?

しかし、私には確認するすべがない。私にできることは、スプウンでニステルローイor伊藤英明をすくって、「あ」と一言斜陽気味につぶやくことだけだ。